スズランと白山吹

つい先日がスズランの日だったことを思い出し、庭のスズランを少しだけ分けてもらう。小さい花だけれど、気品があって可憐な香りがほんのりと漂っている。それだけで幸運がやってくるような気持になってしまう。

剪定され切り落とされた白山吹の枝もまだ元気だったので、書斎兼アトリエへ。
白山吹は私の名前と少し関連のある花。思い入れがあるので処分前の危ないところを救出したような気持になって、大事に窓際へ。初夏のような太陽の光に若葉が透けてとても美しい時間を作り出す。こういう静かでしみじみする幸福を作品にしよう、と少し希望が見えたような気がして元気になる。

”光のあるものを作り続ける事”
私は師匠が亡くなった時に決めたのだった。悲しみや絶望から作品が生まれることも沢山あるけれど、それは私の仕事ではない。「僕らが作り続けなくてはいけないのは、光です」と師匠は言い残してくれた。私もそれには賛成だった。だからこそ、自分自身がどう生きているのかということが非常に重要なこととなった。寂しいことや、悲しいこと、大変なことがあるのは誰もが当たり前のことで、それを人生の根っこの養分に変えて、「優しい喜び」を感じられるものを生み出していかなくてはと思う。優しい喜び、というのは人によって様々なのだろうけど、穏やかで安心感のある幸福に包まれている時間が今の私にはしっくりとくる。ほうっと息をついて、力を抜いてるくらいがちょうどいいのかもしれない。

世間はゴールデンウィーク。海外旅行や行楽で浮き立つ雰囲気をテレビで横目に眺めながら、「体を休める」ということをする休暇として大切に過ごしている。これは「体の声にしっかり耳を傾け、それに従って生活する」ということを実行するため。本来自分の身体が壊れたら生きていけないのだから、当たり前と言えば当たり前のことなのに、それが全然実行できていなかったのだからおかしな事だと思う。少しなら、と無理を重ねて、身体の声を無視し続けてきたと思う。病気や怪我など、突発的に起こることはとても大変で、心も身体も回復するのに長い時間がかかるけれど、それが悪いこととは限らないのかもしれない。起こる事全てには意味があるとよく言うけれど、自分自身がそこから何を学べるかで、一つ一つが大切なことになってくるのだと、小さな白いスズランを見ながら「うん」と頷いてみる。